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水上村の観光地 神社編

2023年10月23日

白水阿蘇神社(白水神社)

白水神社
 雄滝、雌滝の下流中程にあり、大同2年(807年)に草創されました。
 白水神社は「ヘビ」の神様と言われ鳥居にもヘビが巻かれており、勝負の神様、学業の神様、商売繁盛としても多くの参拝客が訪れます。
 「ヘビ」の神様と言われるには次のような言い伝えがあります。
 昔、この山村ではゴマが盛んに栽培されていました。ある日、とある農夫が畑にゴマを植えようとその木を差し込んだとき、冬眠中の白ヘビの目を刺し、殺してしまいました。その後、その白ヘビを刺した農夫は不幸な死を迎え、これは白ヘビの崇りではないかということが囁かれるようになりました。そこで、ヘビの好物である生卵を欠かさずお供えし、その霊をなぐさめるようになり、人々は安泰な日々を過ごせるようになりました。現在も神前の前には大好物の生卵が数え切れないほど供えられています。
 毎年9月23日の秋の祭りには、10人の踊り手による「白水神楽」が奉納され、大変な賑わいになります。

生善院(猫寺)

生善院
 生善院は寛永2年(1625年)に創建され、岩野(里坊)に位置する新義真言宗寺院です。その観音堂と厨子が平成2年9月11日に国の重要文化財に指定されました。相良33観音の24番礼所です。
 普段は「猫寺」と呼ばれ、狛犬ならぬ狛猫が山門の両脇に建ち、訪れる人を見守っています。この寺は「ある霊」を鎮めるために建てられたと言われ、そのことは旧藩主相良家の化け猫騒動として今も伝わっています。

旧藩主相良家の化け猫騒動

 ――それは、天正9年(1581年)のことでした。
 当時、相良藩は鹿児島の島津義久(薩摩藩)と戦っておりました。その戦いの中、第18代藩主・相良善陽が戦死したため当時わずか10歳の忠房を19代藩主とし、次男長毎を島津氏に人質として出し和睦を結びました。
 しかし、島津氏は「八代も自分の領地である」と言って攻略を始めてしまいました。このような薩摩藩の勢いに「やがてこの球磨・人吉の地にも侵攻してくるのでは?」という噂が流れ始めたため、人々の間に不安が募りました。

 同年12月、先代藩主・善陽とは仲が悪かった腹違いの弟・頼貞が多良木の地を訪れたとき、相良藩の出城である湯山城主・湯山佐渡守宗昌は、その弟である普門寺住職・盛誉法印と一緒に頼貞に会いに行き、戦死した先代・善陽の悔みを申し上げ、世間話程度をして帰りました。
 この会談を知った宗昌を良く思わない他の武士達は、先代・善陽と頼貞が不仲であったのを利用し「湯山佐渡守と盛誉法印は、頼貞とともに薩摩藩に協力して人吉・球磨に攻め入ってくる。早くなんとかせねば危ない」と、嘘の密告をしました。
 それを耳にした藩主・忠房の姉は、重臣達と協議して、米良の黒木千衛門を総大将として、米良・須木の武士に天正10年(1582年)3月16日に普門寺に攻め入るように命じました。
 一方、密告した武士達は自分たちの策略が藩主・忠房にばれてしまった場合を考え、攻撃中止の使いに酒好きな早駆けの犬童九介が出るだろうと予想し、立ち寄るであろう先々に「人吉から馬で来る者は無類の酒(焼酎)好きであるので、水を求められたら酒を出すように」とお触れを出しておきました。

 普門寺戦略の前日、家老の深水宗方は「湯山佐渡守は俗人だから何を考えているか分からないが、盛誉法印は仏に仕える身。これを殺してしまっては取り返しのつかないことになる」と判断し、普門寺攻めは中止と決断、犬童九介を普門寺に走らせました。
 ところが、九介が途中免田の築地で喉が渇いたため、水をもらいに茶屋に入ったところ、住人は「この人がお触れにあった酒好きの人だろう」と思い、大きな湯のみで焼酎を何杯も飲ませてしまいました。酔っ払いふらふらになった九介は、なんとか多良木までは来れましたが、とうとう馬に乗ることも歩くこともできなくなり、道に寝込んでしまいました。
 その一方で宗昌と盛誉法印は、自分たちに反逆の疑いのため追い打ちの命令が出たのを知ると、2人とも逃亡すれば本当に反逆したと思われると考え、宗昌は日向(宮崎)へ逃げたものの、盛誉法印は普門寺に残りました。

 3月16日未明、中止の連絡が届かず何も知らない黒木千衛門は、球磨川を渡り普門寺に攻撃を始めてしまいました。止める法印の弟子達を斬り倒し、千衛門はとうとう勤行中の法印を声も掛けずに後ろから首を斬り落とし寺に火を放ちました。
 慌てて起き、懸命に馬を走らせ、やっとの思いで九介がたどり着いたのも丁度その時でした。
「自分のせいで法印を死なせてしまった……」
 九介は、事の次第を藩主へ報告すると、切腹してしまいました。

 無実の罪を着せられて殺された盛誉法印。その母・玖月善女は、その恨みを晴らすため愛猫・玉垂を連れて市房山神社に参籠し、自分の指を噛み切って神像に塗りつけた。その血を玉垂にも舐めさせ「自分と一緒に怨霊となって、黒木千衛門を始めとした相良藩を祟ってほしい」と言い含めて、21日間の断食の後「茂間ヶ淵」に玉垂を抱いて身を投じました。
 すると間もなく相良藩では、毎夜、猫の玉垂が忠房を苦しめ、また盛誉法印を討った黒木千衛門は狂い死にし、次々に奇怪なことが起こり始めました。
 そこで相良藩では祟りの恐ろしさから逃れるため、盛誉法印とその母・玖月善女、愛猫・玉垂の霊を鎮めるため、普門寺跡に新しく生善院を建てました。寛永2年(1625年)には別に観音堂を建て、法印の影仏として阿弥陀如来を、母の影仏として千手観音像を祀りました。
 そして藩民に毎年3月16日には15日の市房山神社参詣とともに猫寺参詣を行うよう命じ、藩主自らもこれを実行したため、ようやく霊も鎮まったそうです。

そして現在……

 猫寺参詣は昭和30年代頃まではたいへん賑やかに行われ、その後市房山神社は縁結びの神様「おたけさん」として、また玖月善女が身を投じた茂間ヶ淵の神社は子供の守り神「ごしんさん」として、今でも厚く信仰されています。

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